【浜松商工会議所が認定する「やらまいかブランド」商品とは?】
浜松地域の特産品や様々な素材、歴史、文化、技術などの地域資源を活用した商品から、やらまいか精神溢れさらなる成長が期待できる製品を、浜松商工会議所が地域ブランドとして認定している商品です。
今回は「やらまいかブランド」商品から、有限会社あおいの「みそまん藤吉郎」をご紹介します!
「みそまん藤吉郎」は、浜松時代の藤吉郎を記した「太閤素生記」に出てくる浜松城のエピソードから生まれた和菓子。戦国時代の三大武将の一人である「藤吉郎(豊臣秀吉)」もまた、「竹千代(徳川家康)」と同様に浜松にゆかりのある武将であることを知ってもらえたらという思いが込められたお菓子です。
今回お話を伺うのは、御菓子司あおい の豊田さんです!
豊臣秀吉のエピソードが由来の「みそまん藤吉郎」6個入 ¥820(税込) 〜
浜松時代の藤吉郎を記した「太閤素生記」によると、「曳馬城(引間城、後の浜松城の前身)で与えられた栗を口で皮を向き、猿真似をしながら食べてその場を和ませた」との内容が書かれているそうです。このエピソードから豊田さんは、刻み栗入りこしあんのみそまんを試作し、藤吉郎と名前を付けて商品化をしました。
『「徳川家康」の幼少期の名前が「竹千代」であることを知らない人が多いように、「豊臣秀吉」の幼少期の名前が「藤吉郎」であることもまた知らない人が多いと思う。「徳川家康」「豊臣秀吉」は歴史でも習うので名前は知っているが、彼らがが幼少期に浜松(松下家)と深く関わっていたことを、たくさんの方に知ってもらいたい。』
と豊田さん。御菓子司あおいの和菓子には、「小豆餅」「銭取」「出世葵」など、徳川家康にまつわるエピソードから名前をとったお菓子が多く、「藤吉郎」にも期待を寄せていました。
浜松の頭陀寺(松下家)で3年間武家奉公していた「藤吉郎」の物語
藤吉郎(豊臣秀吉)といえば、織田信長に仕えた後に天下人まで上り詰めるのはみなさんご存知のストーリーかと思います。では、織田信長に仕える以前の藤吉郎はご存知でしょうか?
幼少期に尾張国(現在の名古屋市)からきた藤吉郎は、浜松の頭陀寺(松下家)で松下之綱に仕え14~16歳までの3年間奉公をして武士を志していました。その時のエピソードの1つが、先程の曳馬城での”栗”のお話です。
浜松市では、NHKでおんな城主直虎による井伊家と家康公がクローズアップされることが多い中、今年放送されている「麒麟が来る」の35話のゆかりの地の紹介で浜松市の頭陀寺のエピソードが流れ「秀吉公が幼少期に浜松(頭陀寺の松下家)に3年武家奉公のためにいた」と語られ、秀吉も浜松関係あったの!?と驚く方も多かったと思います。
現在も訪れることができる松下家跡地の近くに、鎌研池という場所があり、奉公中に秀吉が鎌を研いだ場所と伝えられています。そして、その鎌の切れ味を確かめるために近くに生えている葦の片葉ばかり切り落としていたので、やがてそこには片葉の葦が映えるようになったと言われています。後に遠州七不思議の一つとして語り継がれています。
(※14歳からではなく16~18歳の3年間など、諸説あります。)
浜松の地名にもなっている「小豆餅」と「銭取」のお菓子
浜松の徳川家康ゆかりの地名として「小豆餅」と「銭取」があります。とても有名で、浜松の方はこのお話が大好きです。
徳川家康が三方原の戦いに敗れて浜松城へ逃げ帰る途中、小さな茶屋で小豆餅を食べていた時に、武田軍の追っ手の気配に気付いた家康は、そのまま逃げ出してしまい、小豆餅の代金を支払っていない食い逃げの状態に。その茶店の老婆が「銭を払え!」と言って徳川家康を猛ダッシュで追いかけたという伝承が語り継がれています。
(※この伝承も諸説あるそうです)
この時に、家康が茶屋で小豆餅を食べていた場所が後に「小豆餅」と呼ばれるようになり、老婆がダッシュで家康に追いつき銭を払わせた場所が「銭取」という地名で呼ばれています。
この語り継がれているエピソードがもとになったお菓子ですね。「銭取」はパッケージの絵に走って追いかける老婆が描かれています。
「みそまん藤吉郎」の主な販売場所のご案内
- お菓子司あおいさんの各店舗
- 有玉本店
- 葵東店
- 遠鉄百貨店
- フィールフィルタウン等のお土産コーナー
みそまん藤吉郎(有限会社あおい)のお問い合わせ先
事業所名・団体名 | 有限会社あおい |
電話番号 | 053-435-3365 |
所在地 | 〒431-3121 浜松市東区有玉北町1593 |
ご担当者 | 豊田(代表取締役) |
URL | http://aoikasi.jp/ |
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